知恵( ≠ 知識 )

一般にものごとを識別し,統合する心のはたらき。知恵は現実のさまざまな現象を識別するとともに,それを統合して理解するはたらきであるために, 現実の感覚的なはたらきを超えて,全体を把握する超越的な意味も含んでいる。仏教では知恵をものごとの識別に使われる智(ジュニャーナ jñāna)と, 統合的で識別的な機能を超える般若の智慧(プラジュニャー prajñā)とに分けて考えた。また,先天的に備わっている生得慧,他人の教えから得られる聞所成慧, 内的思索によって得られる思所成慧,修行の実践の中で得られる修所成慧の4種類に分類している。

世界大百科事典 第2版

知恵と教養

教養という言葉を本当に理解している人はいるのでしょうか? 理解の有無に関係なく、私たちは実に気軽に教養という言葉を使います。 「あの人は教養がある」、「幅広い教養」、「教養が邪魔する」など。そして、本当に多くの人が教養について語ろうとしますが、本当の意味で 「教養」を理解している人は皆無です。教養は「知識」ではありません。教養は「問題解決能力」です。知識では問題は解決しません。 問題の解決には「知恵と情熱」が不可欠です。知恵のない解決は真の解決ではなく、問題の先延ばしです。問題は先延ばしすればするほど状況は悪化します。

情熱があれば 知恵が動いて、はたを楽にする

何かを成し遂げるのに、情熱は不可欠です。恋愛は情熱ではなく執着です。執着の先には破壊がありますが、 情熱の先には創造があります。情熱は犠牲です。犠牲に個は存在しません。自己主張する犠牲は真の犠牲ではありません。 情熱は空(≒ 無我)の行為です。空の行為は愛です。愛に限界や不可能はありません。愛には裏も表もありません。 犠牲とは与える喜びです。奪う行為に喜びはありません。つまり、与える喜び = 情熱 です。

情熱はどこからくるか?

情熱は見つけるものではなく、生まれながらに持ってい人間の特質です。 生まれつき持っているものを見つける必要はありません。 ただ、そこに あなたの中に密かに存在しているのです。 つまり、あなたが生きている限り情熱がなくなることもありません。 情熱を卒業したときに はじめて あなたはこの世を去ることを選択します。 日々の生活のなかに感謝があれば、情熱を知ることができます。 逆な言い方をすれば、情熱がない(知らない)人は、何かをしてもらったことに感謝はできますが、 生きていること自体に感謝がないのです。あなたが生きていくために、 多くの命が喜んで犠牲になっていることをお忘れなく。

情熱が持てない人の共通点

あまりなじみのない言葉「Ambivalent:アンビバレント」とは、どういう意味か知っていますか? 「アンビバレント」とは、「同じ物事に対して、相反する感情を抱くこと」という意味です。 「アンビバレント」は精神医学や心理学で使われる用語なので一般的にはなじみの薄い単語でしたが、 人気アイドルグループ「欅坂46」の曲のタイトルに使われたことで世間に知られるようになりました。 では、「相反する感情を抱く」とはどういうことなのか?これを正確に理解しているひとは稀です。 結論から先に言ってしまえば、情熱が持てない人の共通点はアンビバレントにあります。つまり、 本当は好きなのに、何かの事情で嫌いを装う、または嫌いを自分に言い聞かせるための行動を取る ことで、好きな感情を心の奥深くに押しやり、いつの間にか、本当に好きなものとそうでないものとの 区別できなくなっています。そして、この心の奥底に追いやった感情を埋め合わすために、心ではなく、 頭が良い悪いの価値観から想像したものを好きになろうと努力します。 しかし、頭が想像したものは所詮空想でしかなく、虚しい努力だけが繰り返された結果、情熱そのものが嫌いになります。 では、どうしてひとはアンビバレントな状態に陥るのか? 答えは、人それぞれですが、とてもシンプルでとるに足らないものです。 いくつかの例を挙げると、それは、劣等感、自意識過剰、自己保身、他人の目などです。 現代人は死ぬことより心が傷つくことを恐れています。その行為は結果的に、心に蓋をして、心を殺しています。

幸せとは

情熱、生きがい、犠牲、幸せ、喜び、感謝、これらはすべて同一語です。幸せとは愛することです。 そして、至福とは、ただ愛することです。 愛することに理由は必要ありません。ただ愛すればいいのです。 愛に理由が必要なら、それは想像の愛であって実在の愛ではないのです。この世に存在する全てのものは 実在していること自体が、その存在価値を立証しています。いまさら あえて 存在事由を問いただす必要はないのです。 そこに道があれば進めばいいのです。人生も同様に、ただ 人生を生きることで はじめて 人生の意味や生きがいを 知ることができます。人生の意味を理解したとき、犠牲と情熱の存在に気づくでしょう。